私は人生がひっくり返るほどの苦しい思いをしたことがあります。
これは当時の私には非常に受け入れ難く、何度も頭の中を駆け巡り、色んな感情を巻き起こす、止まり続ける台風のようでした。
私はその時も走っていました。
ただ闇雲に走っていても、なかなか晴れない霧のような感情もありました。
そんな時、YouTubeの動画に出会いました。
私と同じような経験をした方のメッセージに、ある僧侶が答えている動画です。
相手の行いを思い出す度、辛い思いが繰り返し湧いてくるというような内容です。
なぜそんな動画を見る気になったのかわかりません。
たまたま目に止まったのです。
なんとなく耳を傾けていると、心に響く言葉がありました。
相手に言われたこと、されたことは自分に向けられた第一の矢。
その後、された事や言われた事を思い出して、嫌な思いになったり、責めたり、相手に向ける負の感情に対して自己嫌悪になったり。これらは第二・第三の矢として自分に向けられていると。
第一の矢は他人によって作られ、第二・第三以降の矢については、自分で作り出している。
つまり、他人からの矢は防げずとも、自身が作り出すこの矢は防げるという事です。
諦める(明らかにする)ことが大事。
第二第三の矢は自分で作り出しているという事を明らかにすることが、自分を苦しめる負のループから抜け出すことになるのだと。
あとで調べたこと
あの動画は、「大愚和尚の一問一答」というYouTubeチャンネルでした。福厳寺というお寺のご住職が、寄せられた人生相談に答えている番組です。
気になって、少し調べました。
この「二本の矢」は、実在する仏典の教えでした。
パーリ経典『サンユッタ・ニカーヤ』第36相応第6経「サッラッタ経(矢の経)」。漢訳では『雑阿含経』巻17 第470経「箭経」。
悟った人も、そうでない人も、第一の矢は同じように受ける。しかし聖者は、第二の矢を受けない。
・・・2500年前から、みんな同じことをやっていたわけです。
少し安心しました。
「諦める」は、投げ出すことではありませんでした
ここも、調べて驚いたところです。
「諦める」の「諦」は、サンスクリット語の satya(サトヤ) の訳で、真理・道理という意味だそうです。
そして漢字の本来の意味は、「つまびらかにする」「明らかにする」。
ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する。
出典:諦める|生活の中の仏教用語(大谷大学)
投げ出すことではなく、明らかにすること。
・・・言葉の意味が、途中で入れ替わってしまったんですね。
いまの私は
第二の矢を、いまも放ちます。
なくなってはいません。
ただ、放っているのが自分だと、気付けるようになりました。
・・・それだけで、深く沈むことはなくなりました。
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